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離岸 Feed

2008年3月10日 (月)

離岸 最終回(720キャンペーンに参加して)86

 そもそも720キャンペーンに参加出来たことだって、きよみさんのブログに、気軽な気持ちでコメントを書き込ませてもらったことから話がトントンと運んで、彼女の船に乗せていただき、潮風が体を包む船旅を体験させてもらった。
 それと同じで、今は不安で孤独な世界に迷い込んでしまっていても、ある日突然、遠くに新しい港の灯りを見つけることだって出来るかもしれない。そんな楽天的な思いが、僕の心の片隅でいつの間にか芽生え始めていた。浪人の身となってから、これほど気楽な物の考え方が出来たことは初めてである。
 心が少し軽くなったことが手伝ってか、昔の偉い人の言葉を思い出した。「この世は無常である。変わらぬ物など、何一つ無い」とか何とか。
 そう、確かにこの世は無常であった。事務所の机に向かって仕事をしていたあの頃、経営状態が良くなかったことは知っていたが、それでも会社が無くなるなんてことは縁遠い話のように思っていた。そんな存在だったものが、ある日僕の目の前から一瞬にして消えていった。
 ならばである。暗澹(あんたん)たる雲が垂れ込めるこんな日々だって、その雲が晴れる日がいつ来てもおかしくは無い。何せ世の中は無常なのだから。
 そんなことを考えながら、ヨットハーバーをテレンコ、テレンコと歩いていたときである。
「なあなあ、お父さん・・・」
 えらく考え込んだ様子で、息子が僕に喋りかけてきた。
「何や?」
「今度のクリスマスプレゼントやけどな、DSのソフト、やっぱり止めとくわ・・・」
 このクソ暑い時期にいきなり12月の話とは、こいつは何を言い出すのかと思ったが、とりあえず代わりに何が欲しいのかを聞いてみた。
「どないした。何が欲しくなったん?」
「うん、僕な、サンタさんにモーターボートをお願いする!」
 この唐突で無茶なプレゼントの変更要求に、お父さんサンタは何と返答すれば良いのか、咄嗟にその答を見つけることが出来なかった。
「ウ〜ン・・いや〜、な〜、それはちょっと難しいと思うで・・・」
 しばらく唸って、やっと捻り出した彼への返事。
「何で? サンタさんはお願いしたら何でも持ってきてくれるんやろ!!」
 まだ息子は、真剣にサンタクロースの存在を信じている。その夢を壊さず、どうすれば上手く話を逸らすことができるのか。
「そやけどな・・、サンタさんが背負っている袋の中に、モーターボートは入らんやろ。やっぱりそれはちょっと無理やで。それより早く建物まで行って、冷たいジュースでも飲もう。そや、そうしよう!」
 無理矢理に話を誤魔化して、この場をやり過ごそうとする僕。腕時計は太陽が南中を差す頃になっていた。真夏の太陽はまだまだ燃え足らない様子で、ギラギラと僕たち親子を照らし続けていた。

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2008年3月 6日 (木)

離岸 (720キャンペーンに参加して)86

 きよみさんという、僕の知らない世界に住んでいる人との新しい出会い。そして彼女が誘(いざな)ってくれた水面への旅。そこには、これまでに見たことも感じたこともなかった海や陸の姿が僕たちを待っていた。
「まるで波が、心の中に溜まった嫌なモンを洗い流してくれたみないやな・・・」
 そう心の中で呟きながら、重く引きずっていた足を止め、きよみさんの乗る白い船が去っていった、大阪湾への出入り口の方へ振り返った。周囲をコンクリートの防波堤で囲まれている港だが、僅かに途切れているその間から、どこまでも広がる大海が、確かにはっきりと見える。
「お父さん、急に止まってどないしたん? 早く行こう!」
 何の言葉も無しにいきなり歩くことを止め、遠くの方をボンヤリと見ている僕を不思議に思った息子が、早く歩けと催促をしてくる。
「ああ、すまん。行こか・・・」
 海へのゲートと僕たちが立っている場所の間には、沢山のヨットやプレジャーボートが係留されていた。そんな船たちを見て、僕はふと、こう思った
 今、自分が経験している状態というのは、自分の船を停泊させていた港から突然出て行けと言われ、理不尽な要求になす術も無く、家族共々小船に乗り込み、当ても無く出航し小さな船外機一つを必死に動かしながら、次の寄港地を求め海の上を彷徨っているようなものなのかもしれないと。この部分だけを見ていれば、本当にお先は真っ暗としか思えない。
 しかしこのときの僕には、不思議なことが起こっていた。「新しい港は近いうちに、案外ひょんなことから、意外な所に発見することができるのではないか」なんて考えが、何故か心の奥底から、小さな泡を立てながら湧いてくるのである。
 
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2008年3月 3日 (月)

離岸 (720キャンペーンに参加して)85

 それにしても何とも不可思議だったのは、この時僕は疲れきった体を引きずって、元居たあの陰鬱な場所へと、一歩ずつ確実に近づいているはずだった。
 職場の同僚や上司に後輩たち。数多くのお客さんや仕入先の担当さん。仕事という窓口を通じて知り合う人のなんと多いことか。
 彼らと出会い言葉を交わすことで、僕という一個人が、世の中の一端と繋がっていた。会社にいたときは、そんなことなんて全く意識をしていなかった。皮肉なことに仕事を失うという事態を経験して、初めて仕事というものが、金を得るための手段以外にも、人として暮らしてゆくための重要な役割を果たしていることに気が付いたのであった。
 会社が消え去り、仕事の話から他愛も無い雑談まで、色んな話をしてきた人たちとの接点が無くなったとき、僕は社会から閉ざされた異次元世界の住人となった。街に出てみれば数え切れないほどの人とすれ違うのに、その中の誰一人として僕という存在を知っている者はいない。
 それでも最初の1週間は「今まで一生懸命に働いたのだから、骨休みのつもりで休もう」と、わざとのんびり過ごす振りをすることもできた。しかしそこから先の一日一日は、収入がなくなってしまったという恐怖と、世間から自分だけが取り残されていくような焦燥感が、日を追うごとにドンドンと大きくなっていくのである。そして何時(いつ)しか、そんな時間の流れが当たり前の毎日となり、次の仕事を見つけるまで、延々とそれが続くのかと考えると、余計に気分が滅入ってくるのある。
 そんな日常に僕はまた舞い戻ろうというのに、その心の内は、肉体が感じていた極度の疲労感とは対極的に、なんとも清々しく軽やかなのである。

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2008年2月26日 (火)

離岸 (720キャンペーンに参加して)84

 足元がコンクリートのためか、下からから立ち昇ってくる熱に蒸され焼かれている感じがする。ちょうどフライパンの上で焼かれる肉が、最初に感じる熱さはこんなものなのだろうか、などとくだらない妄想が頭を過(よ)ぎる。
「うぁ〜、なんかモア〜っと暑くなってきたぞ。これは堪らんな〜。お前、大丈夫か、暑いことないか?」
 体力を使い切った体に、この異常な熱気は耐え難いのものがあった。大人の僕でもこうなのだから、七歳の倅にとっては、もっと深刻なものかもしれない。軽い脱水症状などを起こしてはいないかと、気になり声を掛けてみた。
「暑いわ〜。そや、お父さん、お茶ちょうだい?」
 そう言えばリュックの中には、まだお茶の入ったペットボトルが放り込まれたままになっていた。僕の声を聞いて、彼はそのことを思い出したのだろう。
 それにしても息子の声はだいぶ干からびてはいたが、力そのものが抜け切ったような張りの無い声ではなかった。それが確認できて、僕は少しホッとする。
 右肩だけに肩ベルトを通して、背中にダラリと背負っていた鞄。体を左右に少し振ってそのベルトを肩から外し、右腕を棒のように伸ばして、そこを滑らせながらお腹の前へと持ってくる。左手でバックの底を抱えながらチャックを開けて中をガサゴソと漁ると、すぐに右手がペットボトルを探し当てた。
 それをムンズと掴み、バックの中から引っ張り出す。500ミリリットルサイズのペットボトルの中には、その八分の一ほどの量のお茶が、容器の底で揺れていた。
「もう、こんだけしか残ってないけど・・」
 僕はそう言いながら、ボトルを息子に手渡した。
「ありがとう」
 彼はボソリと一言だけそう言うと、白いキャップを空けて、一気にお茶を口からその奥へと流し込む。ゴク、ゴクリと二度喉を鳴らしただけで、透明なペットボトルの中は空っぽになった。
 
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2008年2月18日 (月)

離岸 (720キャンペーンに参加して)83

 ヨットハーバーから海へと再び出て行く、きよみさんの後姿。その光景は、まるで悪者を倒した仮面ライダーがオートバイに跨り、危ういところを助けられた人に「さらばだ!」と、背中で語りながら景色の奥へと小さくなっていく、最後の場面と重なって見えた。乗り物で颯爽と去ってゆく姿というものは、どこか共通の格好良さが有るように思うのは僕だけだろうか。
 左腕に巻かれた腕時計の秒針が、半回転もしたかと思う頃には、きよみさんを乗せた白いボートは、防波堤の向こう側に消えてしまった。
「さあ、ほな行こか・・」
「うん・・・」
 異空間から元の世界へと戻ってきた二人は、コンクリートの岸の上をトボトボと歩き出す。すると帰りの歩みを二、三歩進めた辺りで、急に体がドッと重く感じ始める。
 船上で強い風に当たり続けた為、予想どおり体力を一度に消耗したのだろう。半袖のTシャツに半ズボンの服装は、もう勘弁してほしいと思うほどギラつく太陽の下では、僕にとって一番快適な格好である。しかし絶えず風にさらされ続けられる海の上では肌の露出が多かった分、余計に力を奪われてしまったのだろう。
 僕の左側に並んで歩く息子も、「うん・・・」と言ったっきり、ほとんど喋ろうとしない。その歩く姿は、肩を落としダラダラと足を引きずるように歩いている。彼も僕と同じように、体に蓄積したエネルギーのほとんどを使い果たしてしまったようだ。
 空調の効いた港の建屋まで、なんとか彼の気を紛らわせながら歩こうと思い、あれやこれやと話し掛けてみるが、なかなか会話は続かなかった。
 そうこうしていると、今度は歩き出してから二、三分たったところで、体が異様にムッとした熱気に包まれだした。きよみさんの言っていた「もの凄い暑さ」が、その言葉どおり僕と、おそらく息子の体にも巻きついてきたのだ。
 
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2008年2月14日 (木)

離岸 (720キャンペーンに参加して)82

「いえ、こちらこそ。今日は本当に楽しかったですよ」
 きよみさんからも、返事の言葉が返ってくる。それにしても、このとき結局もう一つ気の利いた言葉が出てこなかったことが、今でも本当に残念でならない。
 二言三言の会話が続いた後、ほんの少しの沈黙が訪れる。この数秒の静寂が、僕たち親子を海というワンダーランドから、元の世界へと戻す鍵となった。
「ほな、行こか・・」
 探していたタイミングが来たと思った僕は、静かな時間を破り、息子に突堤へ上がるように促した。
「うん!」
 息子も素直に従って返事をする。彼なりに、船の上から去るその時が来たことを理解しているようであった。
 まず最初に息子が船縁に足を掛け、ヒョイっとコンクリート上に立った。その後、僕が少し重たい動きで岸へと上がり、彼の横に並んだ。
「本当に、ありがとうございました。帰り道、お気をつけて!」
 陸の住人である二人は、きよみさんの方を振り返ると、最後にもう一度、お礼とお別れの言葉を彼女に送った。
「こちらこそ、それじゃあ!」
 船の上から、満面の笑みできよみさんも答えてくれた。そして彼女は大きなマッシュルーム型の鋲に巻きつけたロープをシュルシュルっと外すと、それを船の上に置き、機敏な動きで操縦席へと戻る。
 きよみさんが作業をしている間に、ボートは波に揺られ岸壁から少し離れていた。船縁と岸の間に生じた僅かな隙間。その幅の分だけ、僕は何故か寂しさと切なさを感じた。
 きよみさんは、僕たちを乗せて出航したときと同じように、大阪湾へと通じる水路へとボートを後進させた。
 船首が港の出入り口へと方向を定めると、船外機は再び大きな音を立て、彼女だけを乗せた船は勢い良く走り出した。ボートを駆って去って行くきよみさんの姿。それを僕たち二人は、見えなくなるまで見送った。
 
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2008年2月11日 (月)

離岸 (720キャンペーンに参加して)81

「アホか!便座を上げんとオシッコしてどないすんねん!!」
 僕は息子がしでかした予想外の行動に、素の自分をさらけ出して息子を叱った。
「きよみさん、すみません。息子が便座も上げんと・・・。ほれ、何してんねん。お前もチャンと謝らんかいな!」
 備え付けのトイレットペーパーを少し手に取り、便座を拭きながら僕はきよみさんに謝った。そして事の次第があまり把握できていない息子に、早くお詫びをするようにと促す。
 幸い便座があまり汚れている様子はなかったが、僕にとっては汚れているか否かが問題ではなく、息子が非常識なことをしてしまったことが、とても恥ずかしく思えてならなかった。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
 彼女のこの言葉でようやくホッとした僕は、トイレから体を出し、屈(かが)めていた腰を伸ばすと、もう一度彼女に「すみませんでした」と謝った。
 今となっては笑い話として息子と二人で、あの時はな〜・・・と、時々思い出しては懐かしく話をするのだが、その当時は船を下りる最後の最後、一番感傷に浸るべきシーンで起こった珍騒動に、身も心も冷や汗をかきながら頭を下げた僕であった。
 しかしどんな騒動も、やがては一段落して落ち着きを取り戻す。このときも僕が便座を吹き終わってから、数十秒後にはその場の雰囲気は、この日の波のように穏やかになっていった。それと同時に、僕はきよみさんへの感謝とお別れの言葉、それに船から離れるタイミングを探し始める。
 それからちょっとの間を置き、最後の場面の最初が始まり出す。
「お忙しい中、本当に今日はありがとうございました。本当に楽しい時間でした」
「きよみお姉さん、今日はありがとう!」
 まず最初に僕がお礼を述べ、次に息子が続いた。

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2008年2月 7日 (木)

離岸 (720キャンペーンに参加して)80

 どないしたらエエやろ、と思いながらオロオロとしていると、突然僕の背中越しに神の声が聞こえてきた。
「あの、トイレだったら船に付いてますけど。使いますか?」
「エッ!」
 僕は少々素っ頓狂な声を上げて後ろを振り向き、きよみさんの顔を見る。
「あるんやったら助かります。お借りできますか!!」
 僕は言葉と同時に、詰まった息も一気に吐き出した。そして安堵の思いが、体中の血管の中をジンワリと流れて行く。自分自身が切羽詰った状況にあったわけではなかったが、地獄で仏とは、まさにこのような状況のことを言うのだろう。
「どうぞ、こちらです」
 きよみさんはそう言いながら、操縦席の前部に作られた箱のような部分の左側へと周り、おもむろにドアを開けた。
 ドアの中は、限られた場所に作られているということもあり、決して広いとは言えないが、きちんと洋式の便座が据え付けられており、立派なトイレがそこにはあった。
「さあ、どうぞ」
「ほれ、早くさせてもらえ!」
 顔が青ざめ引きつっていた息子に声を掛けると、彼は頭を下げながら、急いで個室へと駆け込んだ。
 ズボンを下ろす方が早いか、それとも漏らす方が先か、というところまできていたようだ。
 なんと息子は、U字型の便座を上げることなく用を足し始めたのである。
「おい、コラ! 便座を上げてないやないか!!」
 しかし、もう遅しである。出ている最中(さいちゅう)にそんなことを言っても、止めることは至難の業だ。結局、彼は最後まで便座を上げることなく、そのままで事を済ませてしまったのである。
 それにしても驚いたのは、小型のボートでもしっかりとトイレが完備されているという点であった。
 確かに海の上で、用を足したくなることは間違いなくあるに違いない。人の生理現象は、それこそ場所など選んではくれないのだ。
 このときは親子して「トイレとはなんと有難い物か」と、心の底から学んだ船の上であった。

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2008年2月 6日 (水)

離岸 (720キャンペーンに参加して)79

 同じ作りの突堤が並ぶ中で、何を目印にしているのかは分からないが、きよみさんは迷うことなくその中の一つを目指していた。
 所定の場所までやって来ると、ハンドル型の舵を彼女は左に回転させた。船も左に曲がり、慎重にそのすぐ先が行き止まりとなった水路へ入って行く。船長は舵を左右に動かし、左舷をコンクリートの船着場へ寄り添うように微調整をしている。こういった細かい作業は、やはり慣れた人間でないと出来ないことだ。
 船が若干の隙間を空けて突堤と平行になった時点で、きよみさんは船外機のスクリューの回転を止め、機敏な動きで操縦席を離れ、係留用のロープを手にするとコンクリートから突き出たゴツイ鋲にロープを巻きつけた。これで船は波に揺られても、岸から離れることはない。そしてそれは、僕たちが船から下りる準備が整った、ということも意味していた。
 さあ、いよいよお別れだ、という段になったところで、何処となく息子の様子がおかしいことに僕は気がついた。別に気分が悪そうだとか、そういった類のものではない。なにやら内股になり、少しモゾモゾとしているのである。
 彼の仕草を見て、僕は即座にピーンときた。だいたい理由は想像できる。
「なんや、何をモゾモゾしてんねん。トイレに行きたいんか?」
 予想した答が正解かどうか、彼に問うてみた。このポーズを取るときは、たいがいトイレを我慢しているときである。
「うん、行きたい・・」
 やっぱりな・・、と思いながら次の質問へと移る
「我慢出来そうか?」
「う〜ん、ムリ!」
 息子の「ムリ!」という返事で、僕はどうしようかと、にわかに焦り出した。何せここは港に着いたとはいえ、まだ船の上である。トイレのある建屋までは、歩いて五分は掛かる距離だ。だが彼の顔には、放水の限界点へと達するまでに、もう一刻の猶予もないという苦悶の表情が、はっきりと浮かび上がっていた。
 
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2008年2月 4日 (月)

離岸 (720キャンペーンに参加して)78

 軽く胸を締め付けるような切ない気持ちは、消えることなく僕の心を満たしていたが、その中に小さな染みが一つ浮かんできた。現実の世界へ戻らなければならない、という思いがボンヤリと目を覚まし出したのだ。そいつは船と港との距離が近くなることに反比例するかのように、ムクムクと急激に大きくなりだした。
 だが、何故だろう。一時の心地良い夢が覚め、失業という現実世界に戻らなければならないのに、僕の体にはいつものようなヘドロみたいに臭く重苦しいものが充満していくのではなく、スッとするガムを噛んでいるときのような、そんな爽快な気分が体の中を流れて巡る
 そしてそれは船旅の終わりを認めようとしない僕と、現実と対面するもう一人の僕を上手く中和していく。
 ほどなくして白い小型船は、港から目と鼻の距離ほどのところに到達し、その速度を落としてコンクリートの壁から一定の距離を保ちつつ、港の北側にある出入り口へと向かった。
 壁の北端を一端通り過ぎ、次に大きく右に180度回頭して、ボートの切っ先を出入り口へと向ける。
 船の速度は更に落ち、ゆっくりと港へ入って行く。もう僕の周りには、深い藍色の海は見えない。高い壁に囲まれたヨットハーバーの中では、もう海の上に浮かんでいるという感じはしなかった。
 狭い道を徐行する車のように、船は慎重に水面を切り、出港前に泊まっていた場所へと進んで行った。
 
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