もし宜しければ、一押しお願いいたします

  • ブログ村ランキング
    にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
フォトアルバム

ウェブページ

Powered by Six Apart

こんな記事を書いてきました

京都言葉巡り Feed

2008年3月17日 (月)

「まいて!」 ・・関西遊び・・

「まいて!」
 私が子供の頃、友達が遊んでいる場面を見つけると、必ずこう言いながらその輪の中に入っていったものであった。私は滋賀県甲賀郡(現在の甲賀市)にあった一つの町の出身であるが、私が住んでいた地域の子供たちは、遊びの仲間に加わりたいときには、みんな必ずこの「まいて」という言葉を口にしていた。
 同じ町内でも他の地域や、同一郡内の別の町でこの言葉が使われていたか否かまではよく分からないところだが、この言葉は十中八九「まぜて(交ぜて)」という言葉が訛ったものに違いない。何故「まいて」と言うようになったのかは、私も未だにその理由を知らない。ただ「まいて」というこの言葉は、私にとって今でも忘れられない音の響きを持っている。
 ある日の夕食時、話の流れで家族にこの話をしたことがあった。それを聞いていた妻は、こう答えた。
「え〜、種でも蒔(ま)くの? そんなん京都では言わへんで。普通に『まぜて』やで」
 この彼女の一言で、初めて「まいて」が方言であることを認識した私であった。念のため、息子に小学校ではどう言っているのかと尋ねたところ、やはり彼の答えも妻と同様のものであった。
 言葉は生き物であり、今でも「まいて」が私の故郷で生き続け、子供たちの間で使われているかどうかは定かでない。しかしこの話を書きながら、自分が小さかった頃の懐かしい言葉が、あれから二十年近く経った今でも、現代を生きる子供たちの間で使われ続けていてほしいと願いながら、幼き日々のことを思い出して、少し郷愁の思いに駆られた春の初め、三月の中旬である。
 
押していただければ、とっても大きな励みになります。
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

2008年1月14日 (月)

車折神社(後編) ・・有名人の名前があっちにもこっちにも・・(関西初詣)

 さて、皆さんは境内社、境内末社といった言葉を聞かれたことがあるでしょうか。これは「一つの神社の境内ある別の神社」のことだそうです。そう言えば神社へ行くと、その神社の神様が祀られている大きな社殿の他に、いくつかの小さな社殿を目にすることがよくあります。それらの神社が、境内社や境内末社というわけです。

 車折神社は、ただ単に歩いて素通りするだけなら、表から入って裏から抜けるのに五分と掛かりません。しかしこの小さな境内の中に、なんと十五もの境内社があるというのだから驚きです。「ホンマかいな?」と思い、この正月に初詣で訪れたときに、ざっと数えただけでも十二の境内社がありました。

 何故これほど沢山の境内社があるのか、神社の方に尋ねてみたところ、次のようなお話を伺うことができました。

 通常、神社にはそれぞれに氏子と呼ばれる方々が存在します。神社の神様が守る地域に住んでいる人々で、神社の行事や維持に協力している方々のことですが、車折神社は他の神社と違い、氏子さんたちがいないのだそうです。

 そのため新しい境内社を設けてほしいと依頼があったとき、氏子さんたちとの協議が必要無く神社独自で判断することが出来るので、その結果としてこれだけ多くの境内社が出来たのではないか、とのお話でした。
 
 さて前編に「この神社は知る人ぞ知る・・・」と書かせていただきましたが、車折神社の敷地内にある十五の境内社の一つに、ある業界関係の方々の間では、とても有名な神社があります。その業界とは意外にも芸能界という華やかな世界。そしてその境内社の名前は、その名もズバリ芸能神社。 なんとも分かりやすい名前です。直球ど真ん中の、まことに関西らしい名前だと思うのは私だけでしょうか?

 芸能神社には、天宇受売命(あまのうずめのみこと)という神様が祀られています。天宇受売命と言えば、その昔天照大神が天の岩戸に隠れ、固くその扉を閉ざしてしまったとき、扉を開けてもらうために、岩戸の前でそれは見事な舞を舞ったという、日本の神話に出てくる神様です。この神話は有名するぎるほど有名なので、あの神様か!、とすぐにピンとこられた方も多いことでしょう。

 現在は芸能神社に祀られている天宇受売命ですが、以前は車折神社内にある別の境内社に合祀されていたそうです。しかし地元の芸能関係者の要望などもあって、昭和32年(1957年)に同境内社から分祀され、新しく建てられた芸能神社に祀られることとなり、今日に至っているとのことでした。

 そして現在、この芸能神社には多くの芸能関係の方々がお参りをされるそうです。それを裏付けるかのように社殿を取り囲む多数の玉垣には、有名な俳優さんや歌手といった方々のお名前をあちらこちらで見つけることが出来ます。

 しかし、いくら芸事の神様が祀られているからといって、どうして京都の西にある小さな神社へ、芸能関係の皆さんがお参りされるのでしょうか。ちょっと不思議だと思われませんか? 
 どうやらその答は、この神社の近くに存在する、ある施設が大きく関わっているようです。
 
 車折神社は、京都観光の名所嵐山から少し東へ行ったところにあります。
京福電鉄嵐山駅から三つ目の車折神社駅で降りれば、目の前はもう車折神社の裏参道です。

 車折神社駅から東へ更に駅を二つ進むと、帷子の辻という駅があります。ここから歩いて数分のところには「松竹京都映画撮影所」があり、帷子ノ辻駅からもう一つ東へ行けば太秦広隆寺駅です。この駅は、東映京都撮影所と皆さんご存知の「東映太秦映画村」への最寄駅です。

 車折神社から少し東へ行けば、そこには日本を代表する大きな映画会社の撮影所が二つもあるということになります。

 いつの頃からか、車折神社の境内社に合祀されていた天宇受売命。そして年月は随分と流れ、この地に建てられた二つの映画撮影所。単なる偶然で、この地に大きな撮影所が複数建てられたとは思えないのが、なんとも面白いところです。

 そして芸能神社を建ててほしいとお願いした地元の芸能関係者とは、おそらくこれらの撮影所で仕事をされていた方々なのだと私は推測します。

 また、これも私の想像の域を出ませんが、この神社が建てられた後、最初は撮影のために撮影所を訪れた役者さんたちや関係者の方々が、お参りをされる程度だったのかもしれません。そして月日が過ぎるに連れ、少しずつ芸能界全般にこの神社が知れ渡るようになり、今では分野を問わず多くの芸能関係者が訪れる神社になったのではないでしょうか。

 今年は1月3日に
車折神社と芸能神社にお参りをしてきた私ですが、ちょうどそのとき、振袖を着た若い女性が三人ばかりと、黒いスーツを着た彼女たちより少し年上の男性一人がいる団体を見かけました。「さあ、行こうか」と関東弁で話す男性は、どうやら彼女たちをまとめている人のようでした。

 彼女たちの雰囲気は、何処か一般の人とは違うものを醸し出していました。
「ひょっとすると芸能人とそのマネージャーかな、彼女たちの顔は見覚えのない顔やし、まだ新人さんなのかな?」

 そんなことを思いながら車折神社を後にした、今年の初詣でした


押していただければ、とっても大きな励みになります。
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
 

2008年1月11日 (金)

車折神社(前編) ・・「車折」をどう読まれますか?・・(関西初詣)

 古都、京都には数々の神社があることは、皆さんご承知のことかと思います。有名どころでは伏見稲荷大社、八坂神社、平安神宮、北野天満宮、上賀茂神社に下鴨神社、その他にもあれやこれや・・・と、少し考えただけでもまだまだ名前が浮かんできます。このお正月も、沢山の参拝客の方々で大変賑わったことでしょう。

 私はと言いますと、例年どおり我が家の近くにある「車折神社」というお宮さんで、初詣を済ませてきました。こじんまりとした神社なのですが、実はこの神社、知る人ぞ知る勇名な神社なのです。

 何がそんなに有名なのか。その答は後ほどお話するとして、その前にこの「車折神社」という名前ですが、皆さんはどのように読まれましたでしょうか? 神社は「じんじゃ」で問題無しですが、難しいのは「車折」の方で、くるまおれ・・、いやいや違います。正解は「くるまざき」と読みます。いわゆる、難読地名、と言われる場所の一つに挙げることができるかと思いますが、それにしてもこの「車折」という名前の由来・・。何故こんな名前が付けられたのか、少し気になりませんか。

 実は私自信、この名前の由来がどうしても知りたくなり、直接神社にお話を伺いに行ったことがあったので、そのときにお話していただいたことを簡単に紹介させていただきます。

 時代は平安時代から鎌倉時代へ移ろうとする頃(鎌倉時代が始まった年は諸説あるそうですが)。

 この神社に祀(まつ)られている清原頼業(きよはらよりなり)公は、生前に桜が好きであったということから、境内には桜の木が沢山植えられ、当初は「桜ノ宮」と呼ばれていたそうです。

 そして時は少し流れて鎌倉時代。後嵯峨天皇(在位1242年〜1246年)の御召車が、この神社の前を通られたときのこと。御召車の轅(ながえ)が折れてしまいまうという、ハプニングが起こったそうです。その出来事から「車折(くるまざき)大明神」という御神号を賜り、それ以後「車折神社」と称するようなったとのことでした。

 ただ現在使われている「車折」という漢字は、幕末のころから使われ始めたとのことで、それ以前には別の漢字が「くるまざき」に当てられおり、そのまた以前には別の字が使用されていたそうで、現在に至るまでに何度か字の変更があったようだ、とのお話でした。

 ちなみに轅(ながえ)とは、牛車の前に長く突き出た二本の棒のことだそうで、軛(くびき)と呼ばれるものを片側の轅の先からもう一方へ渡して、牛に車を引かせたそうです。

 神社の前で車が「さけた」ので「くるまざき」。お話を伺ったときは、なるほど!、と頷(うなず)いたことを今でもよく憶えています。

 また、これはあくまで私が勝手に解釈したことでありますが、轅が折れたことを単に「おる」と言わず「さく」と言ったあたりに、当時を生きた人々の感性の豊かさを感じずにはいられません。

 人の力では簡単に壊すことの出来ない牛車。それをいとも簡単に裂いてしまった神様。そんな偉大な力を持つ神だから車折大明神。そんなふうに考えると、なんとも素晴らしい表現力だと、感心してしまうことしきりなのであります。
 
 さて話は変わり、この神社は知る人ぞ知る有名な神社、と最初に書かせていただきましたが、次はその話へと移りたいと思います。

車折神社(後編) ・・有名人の名前があっちにもこっちにも・・(関西初詣)へはこちらからどうぞ


押していただければ、とっても大きな励みになります。
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

2007年6月13日 (水)

京都言葉巡り 2 ・・歴史がいっぱい 京銘菓「八ッ橋」(後編) 起源は吉宗の時代 材料は古代エジプトにまでさかのぼる?・・

 京都にある八ッ橋を作っておられる会社は、私が知っているだけでも三社ほどある。
 今回は、その中の一つ「井筒八ッ橋本舗」さんに、直接問い合わせてみることにした。
 メール、電話、そして実際に我が家の近くにある、井筒八ッ橋さんの工場敷地内にあるお店に伺いお話を聞かせていただいたのだが、みなさんお忙しいにもかかわらず、とても親切に説明していただいた。
 また、「今回いろいろと教えていただいたお話をブログに掲載したいのですが」とお願いしたところ、「どうぞ、どうぞ」というお返事もいただき、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。
 お店に伺った時、八ッ橋のことについてあれこれ書かれた新聞を発行されているとのことだったので、それを一部いただいて帰ることにした。
 その新聞の最初に「八ッ橋の由来」という件があり、そこに八ッ橋誕生の話が詳しく載せられていたので、そのお話をそのまま書かせていただくことにする。
 その件とは以下のとおりである。  
 

 京名物の八ッ橋は、筝曲八橋流の創始者八橋検校に由来します。・・中略・・
 検校は慶長十九年(1614年)、今の福島県いわき市に生まれ、寛永十三年(1636年)に入洛し、現在の京都市中京区綾小路烏丸西入るに居を構えて、作曲の日々を送っていました。
 常に物を大切にする検校は、飯びつを洗う時に残る米のことが気になっていました。
 ある朝、日ごろ何かにつけ世話になっている茶店の主人、岸の治朗三が、井筒で飯びつや桶を洗っていることに気付き、残った米をすててしまうのはもったいないと諭し、小米、砕米(さいまい)、そしてその残りの米に、蜜と桂皮末を加えて堅焼煎餅を作るといいと教えました。
 これが京の堅焼煎餅の起こりと伝えられています。
 貞享二年(1685年)六月十二日、検校は七十二歳生涯と閉じ、京都は黒谷の墓地に葬られました。
 その死を惜しみ検校を慕って墓参する人が後を断たなかったと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の時代に、祇園の茶店で検校を偲び、琴の形に仕立てた堅焼煎餅を「八ッ橋」と名付け売り出したところ、それが大流行したと伝えられています。
 

 以上が新聞に載っていた、八ッ橋の由来についての話である。
 八橋検校の生きた時代は、徳川四代将軍の徳川家綱から五代将軍の徳川綱吉の時代にあたる。
 琴の形にして売り出した時期が徳川吉宗の時代であるとのことから、検校の没後約二十年から六十年の時を経て、琴の形をした『八ッ橋』が誕生したことになる。
 またこのお話の中で、普段はあまり耳にしないのではないかと思われる言葉がいくつか登場する。
 私がそのように思う言葉とは、一つは「井筒」である。
 井筒とは、井戸の上を石垣や木板で囲んだもののことである。井戸というものをほとんど使わなくなった今の日本では、なじみの薄い、もしくは全く耳にしたこともないという方も多いのではなかろうか。
 もう一つは「桂皮」という言葉。
 この言葉は私も知らなかったので、辞書で調べてみた。
 そこには「クスノキ科カシア(東京(トンキン)肉桂(ニッケイ)の樹、枝の皮をはいで干したもの。古来生薬、健胃・発汗・解熱・鎮痛などに用いる」と書かれてあった。
 肉桂はニッキとも呼ばれる香辛料であり、それに近いものが「シナモン」である。
 八ッ橋を食べた時、口の中に広がるあの「スーッ」とした風味は、おそらくニッキによるものだろう。
 シナモンの歴史は古く、紀元前4000年頃の古代エジプトで、ミイラの防腐剤として使用されはじめたようである。 
 シナモンは日本にも8世紀前半には、すでに伝来していたそうである。8世紀前半だとすると、ちょうど奈良時代の頃の話であろう。
 さて話は現在に戻るとしよう。
 当初私が考えた推測は、偶然にも当たっていたことになり、井筒八ッ橋さんからお話を伺った時、私の心は小躍りするような嬉しさに包まれた。
 しかし、それ以上に私の心をワクワクさせたのは、私の周りに身近にあるお菓子『八ッ橋』の事を調べ出すと、私の今まで知らなかった言葉に出会ったり、あれよあれよと歴史をさかのぼることとなり、ついには古代エジプトにまで話が至ったことである。
 もしみなさんが、今度『八ッ橋』を手に取られることがあれば、それを食べた時に口の中いっぱいに広がるニッキの香に誘われて、しばし江戸時代や平城京、そしてそれより遥か昔に栄えた古代エジプトに思いを馳せてみてはいかがかと思うのである。
 また昨日の六月十二日は、先にも述べたが八橋検校の命日とされる日である。
 私のごく身近にある『八ッ橋』について、興味本位で調べ始めた今回の話であったが、偶然にもその話を彼の命日翌日に書き終えることができたことにも、八ッ橋と私の間に何かしら運命的なものを感じるのである。


    引用及び参考文献
       八ッ橋の由来について
       井筒八ッ橋本舗さんのお話と新聞
       
       桂皮(二ッキ/肉桂)について
       wikipediaおよびgoo辞書より
       徳川将軍について
       wikipediaより
       
 

                    
 
 
 
  

 


2007年6月12日 (火)

京都言葉巡り 2 ・・歴史がいっぱい 京銘菓「八ッ橋」(前編) 何故弧を描いているのか? その名前の由来は?・・

 京都で有名なお菓子の一つに、「八ッ橋」というものがある。
 名所旧跡近くに軒を連ねる土産物屋さんには、必ずこの「八ッ橋」が売られていると言っても言いすぎではない。
 この八ッ橋という和菓子は、大きく二つの種類のものに分けることができる。
 一つは「生八ッ橋」と呼ばれるもの。もう一つは堅焼煎餅の「八ッ橋」である。
 私は生八ッ橋の方が特に好物で、生八ッ橋でつぶあんを包んだ、あの二等辺三角形の形をしたお菓子には本当に目がない。
 そんな八ッ橋好きの私であるが、あるときお店に並ぶ堅焼の八ッ橋を見て、ふとある疑問が頭の中に浮かんできた。
「この煎餅の八ッ橋、なんでこんな瓦みたいな形なんやろ?」
 堅焼八ッ橋は一般的な煎餅のように平らなではなく、その姿を横から見ると、大きく弧を描いた形をしている。その形が私には、まるで瓦のように見えるのであった。
「平らな方が簡単に作ることができる筈なのに・・・、わざわざこんな手間を掛けるからには、そこに何かの意味があるに違いない」
 そう思った私は、この京銘菓「八ッ橋」の不思議についてちょっと考えてみることにした。
 
 そんなことを思ってから、数日経ったある日曜日。この日はよく晴れた日で、子供たちを連れて散歩がてらに嵐山へと出掛けた時のことである。
「帰りに八ッ橋を一つ買って帰ろうかな・・」
 私は交差点で信号待ちをしている間、そんなことを考えながら土産物屋さんに並ぶ八ッ橋の箱を遠目に眺めた。
 信号はすぐに青へと変わったため、私はその両手に子供たちの手を握ったまま、交差点をテクテクと渡って行く。
 そしてその帰りは、元来た道をまたテクテクと歩いて帰った。
 すると、当然先ほどと同じ土産物屋さんの前を通ることになる。
「ちょっとこのお店に入ろうか」
 私は子供たちにそう言うと、二人の手を引きながら店の中へと足を進めた。
 お店の中に並べられた堅焼八ッ橋。私はそれを少しの間、ジッと眺めてみる。そしてその形をしばらく見ていて、私はちょっとした違和感を持ち始めた。
「八ッ橋の形って、瓦を模していると思っていたけど、瓦にしては縦横の長さがえらいアンバランスやな」
 お菓子の形は弧を描いている面を仮に縦として、その縦の長さは3センチほどである。それに比べて横の長さは10センチを少し切るくらいの長さがある。
 私が知っている屋根瓦と言えば、縦横の長さにそれほどの差はない。
「う〜ん、八ッ橋の形、これは瓦を模したもんとは違うかもしれへんな。断面は半円形で、縦横の長さが極端に違うもんか・・。この形は、一体何を意味しているんやろ」
 そんなふうに思いながらも、この時は「これだ!」と思う考えも思い浮かばず、ただ生八ッ橋を一箱買って我が家へと帰ったのであった。
 それからまた数日経ったある日のこと。
 仕事で帰りの遅くなった私は、家人が皆寝入って静まりかえった我が家で、一人ビールを飲みながら、ほろ酔い気分で「八ッ橋の形は、一体何処から来たんやろ」などとボンヤリ考えていた。
 人間はボンヤリと考えている時の方が、物事を考えるには良いのかもしれない。
 しばらく考えているとモヤモヤとする頭の中に、突然学生時代の記憶が蘇ってきたのである。
「八ッ橋か・・。あれ?そう言うたら、高校の日本史の時間やったかな、『八橋(やつはし)検校』のことを習ったことがあったな。あれは確か、江戸時代に『八橋流』とかいうお琴(正しくは箏と呼ぶそうだが)の流派を開いた人とやと思うけど・・」
 もう、かれこれ二十年ほど前の記憶になる。えらく古い記憶がいきなり蘇ったものである。
 「お菓子の『八ッ橋』に『八橋検校』さん。どっちも同じ『やつはし』や。ひょっとしたらこの二つの『やつはし』は、何か関係があるんやろうか・・」
 頭の中では『八ッ橋』と『八橋』の名前が、交互に浮かんでは消え、また浮かんでは消えしている。
「八橋検校・・、お琴のエライさんか。あれ、そう言えば琴の形、あれは真横から見ると上の部分がなんとなく丸くなってたよな。弧を描く方は短いし、弦が張ってある方向には長く伸びている。これってなんや八ッ橋みたいな形やで」
 ここまで考えが及んで、私は初めてハッと思った。
「ひょっとして、八ッ橋はお琴を模した物なんか?それやったら『八ッ橋』の名前は『八橋検校』に由来するのか!」
 この考えには何の根拠もなかったが、なんだか妙にしっくりとくるものがあった。
 ここまで来れば、事の真偽を確かめねば気の済まないのが私の性格である。
 そこで私はご迷惑を重々承知の上で、ある八ッ橋を作っておられる会社に、私の疑問をぶつけてみることにしたのであった。
 
 
 
 

2007年6月 6日 (水)

京都言葉巡り 1 ・・どんつき・・

 私の好きな言葉に「どんつき」という言葉がある。
 「道の突き当たり」という意味で、詳細なことまではよく知らないが、私の中に染み込んでいる「どんつき」の意味は、そんなところである。
 京都では、道などを尋ねた時によく使われるこの言葉。

「この通りのどんつきを右に曲がったトコですわ」

 まあ、このような具合で使われる言葉である。
 この「どんつき」は、ものの本によると京都独特の方言と書かれてあったが、滋賀で育った私も昔から知っていたところから考えると、京都と滋賀のみで使われている方言なのであろう。
 しかしこの言葉。私は二十代半ばまで、関西一円で使われている言葉であると思っていた。
 それが私の思い込みであると知ったのは、今から十年ほど前のことである。
 その頃、私は東京で仕事をしていた。
 ある時、他社の数人の方々と一緒に仕事をする機会があり、次回の仕事の打ち合わせ場所への道を説明している時のことである。

「あそこやったら、あっこの信号を曲がった道のどんつきにありますわ」

「なに、『どんつき』って?」

 私と話をしていた関東出身の方が、私にそう聞いてきた。
 その問い掛けの言葉を聞いて、その横にいた別の方が間に割って入ってこられた。

「ああ、それは『突き当たり』っちゅう意味や」
 
 この方は大阪出身の方であり、即座に「どんつき」の意味を説明して下さったのである。
 そこで私は、胸を張って彼に向かってこう言った。

「『どんつき』言うたら、関西では共通語ですよね!」

 しかし、その大阪出身の彼からは、意外な言葉が返ってきた。

「ちゃうちゃう! あれは京都だけの言葉や。俺も意味はなんとなく分かるけど、大阪とか神戸では使こうてへんで!」

「え〜、ホンマですか? ボク、ずっと関西では皆が使こてるもんやと思ってましたわ!そやけど滋賀のボクも昔から知ってるくらいやから、京都と滋賀限定の言葉ですね」

 とまあ、こんなやり取りがあり、この時初めて「どんつき」という言葉の通用する範囲が、京都と滋賀だけであるということを知ったのであった。
 この「どんつき」は、いつ頃から使われ始めたのかは知らないが、今も京都ではしっかりと生き残っている言葉である。
 これからこちらまでご旅行などの計画をお持ちの方は、京都で道を聞かれる時、その説明に耳を澄まして聞いていただきたいと思うのである。
 ひょっとしたらその説明の中に、この「どんつき」という言葉が登場するかもしれませんよ。