もし宜しければ、一押しお願いいたします

  • ブログ村ランキング
    にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
フォトアルバム

ウェブページ

Powered by Six Apart

こんな記事を書いてきました

おとうちゃんの子育て Feed

2006年7月 3日 (月)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなん�・・・ 

思いもしていなかった検診の結果に、私はこの先どうなるのかと思い、その先のシナリオがいろいろと頭を駆け巡った。そして私には何が出来るのかを考えた。
 いろいろと考えたであろうシナリオだが、結果として私には出来ることが何もなかった。 唯一私が出来ることと言えば、我が子の運を天に任せるくらいのものである。
 しかし、妻はそうではなかった。彼女は「逆子体操」なるものを一生懸命に行った。
 しかしその肝心の「逆子体操」・・・記憶の海をしばらくの間泳いで見たが、いったいどの様なものだったのか、我が頭の中に映像が浮かんでこない。
 そこで私は食事中、妻に唐突に聞いてみた。「何を今更・・・」といった顔で答える彼女。
 彼女曰く、四つん這いになり、そこからゴロンと横になるとのことだった。
 その話を聞いて私は思った。
「お腹の大きい妊婦が何度もするには、重労働やな・・・」
 そう思った後、妻に大変だったろうと聞いてみた。
「そうやで!ホンマ、しんどかった」
と懐かしい記憶をかみ締めるように答が返ってきた。
 妻は言葉を続ける。
「逆子が治ったら感覚で分かるらしいけど、あのときは次に病院へ行くまで、治ったかどうか分からへんかったもんな・・・」
 そう言えばそうであった。当時も妻は同じようなことを言っていた。私の記憶の一部が甦る。
 アルバムには逆子が分かった一週間後に、もう一度病院に行ったと記されている。
 そのときの検診に、私が付いて行ったか否かはよく憶えてはいない。
 ただ、我が子が今、どのような状態なのか・・・、そのことを深く心配していたことだけはよく憶えている。
 アルバムには、そのときのエコー写真と一緒に、妻の言葉が次のように添えられている。
「一週間、逆子体操頑張って治ったよ!」
 もう、とっくの昔に過ぎ去った話のはずなのに、妻の言葉を読んで私は改めてホッとした。
 そして当時の私も、その結果を聞いて胸を撫で下ろしたのであった。

2006年6月26日 (月)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

 我が子が妻のお腹に宿ってからの毎月一回の検診。その検診での先生の「うん、順調やね」の言葉を聞くこと、そして我が子のエコー写真を見ることで、私たち夫婦は安堵の息をついてきた。私は毎回の検診すべてに付いて行けたわけではなかったが、夕食時に聞く妻の話や、その後に見せてもらうエコー写真を見て安心したものだった。まさに順調な妊娠ライフと呼べるものであった。
 そして新年が明けてまだ間もない2000年1月15日、私たち夫婦は今ではもう慣れきった病院の待合室で、自分たちの名前が呼ばれるのを待っていた。新年早々ということもあって、診察を受ける人の数はいつもにも増して多かったように記憶している。
「○○さん、どうぞ!」
 診察室のドアが開き、看護婦さんが私たちを部屋の中へと呼び入れた。
 この診察室も、私たちにとってはもうおなじみの光景である。そしていつものように、妻はベッドの上で横になった。次は、これまたいつものごとく、透明のゲルが妻のお腹の上一面に塗られていき、先生はちょっと「T」の字になった白い円柱形のものを妻のお腹に走らせた。そしてモニターに我が子の姿が映し出される。
 何もかもがいつもと同じであった。
 次にくる先生の言葉。これもいつもどおりのアッケラカンとした、妊婦さんやその家族を和ませてくれるトーンの声が返ってくるものだと、私は思っていた。
 しかし、先生の顔がいつもと違う。言葉もいつものようにテンポよく出てこない。
「う〜ん、逆子になってるな・・・ちょっと元気すぎたかな」
「?・・・」
 先生が言ったその言葉。私は最初、それを理解することが出来なかった。
 それに敏感に反応したのは妻である。
「え!?、逆子ですか・・・」
 その顔は不安一色に染まっていた。ここまで順調な経過を辿っていた妊娠ライフである。それが新年早々、予想もしていなかったこの事態。当然といえば当然の反応である。
 妻と先生の会話が進むに連れ、徐々に私も状況を把握し始めた。もちろん、突如として日本語が理解出来なくなったわけではなく、「逆子」という言葉の意味を知らなかったわけでもない。ただ、あまりにも突然の先生の言葉に、まさにその時、私たち親子(お腹の中の子を含めての話だが)が置かれた状況をすぐには受け入れることが出来なかったのである。
「まあ、生まれてくるまでにはまだ時間もあるし・・、頑張って逆子体操でもしてみようか」
 『逆子体操・・?何やろ、それ』
 聞きなれぬ言葉を耳にした私は、心の中でそう呟いた。
 先生は逆子体操の詳しいことについては、看護婦さんから聞くようにとの話をしていたように思うが、ここから先の話はあまりよく憶えていない。
 ただ一つ憶えているのは、帰りの車中、その空気はいつになく重たいものであったということのみである。
 言葉少なげな夫婦を乗せた車は、ゆっくりとしたスピードで家路につくのであった。

2006年6月20日 (火)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

お腹の中の我が子の性別が判明してから彼が生まれてくるまで、おそらくは駆け足で時は流れていった。
 アルバムを覗いてみると、その後も沢山のエコー写真がアルバムに貼り付けられている。またその中には二回目の結婚記念日を向かえたときに撮った私たち夫婦の写真や、今でもクリスマスの時期になると我が家に登場する、180センチのジャンボクリスマスツリーの横で、大きくなったお腹を抱えながら立つ妻の姿を撮ったものもあった。
このころになってくると、妻の「あ!動いてる動いてる」「イタタタタ・・」といった声をよく聞くようになってくる。
 我が子が活発にお腹の中で暴れだすようになってきたのである。私も何度か、妻のお腹が波打つ場面をこの目で見た。それはまるで映画「エイリアン」で見たような光景のようであり、それこそすぐにでも妻のお腹を突き破って何かが出てくるのではないか・・・そんなことを思ったこともあった。
 今思い起こしてみると、本当に我が子を待つ夫婦とって、幸せな一場面である。
 そしてさらに時間は流れ、大預言者の予言も無事はずれ、そんなこんなで我が家もなんとか新年を迎えることができたのである。
 迎えた新年はミレニアムイヤーであった。世の中ではコンピューターの2000年問題もなんとか無事クリアーでき、来るべき新世紀を迎えるためのスタートを世間の人々は切っていたところであった。
 2000年1月15日、ちょっと昔までは成人の日であったこの日に、私たちは新年最初の検診を受けるために病院へと向かった。
 そしてそこで、私たちは新年早々、いきなり心配事を拾い上げることになるのである。

2006年6月14日 (水)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

 1999年10月16日の日付で、アルバムには妻の言葉で次のよう記されている。
「小さなオチンチンが見えたよ!嬉しかった」
 そう、この日の検診で初めて、生まれてくる我が子の性別が判明したのである。
 そしてその男の子の証を第一に発見したのは、何を隠そうこの私である。
 アルバムを辿りながらの回想録ではあるが、このときのことははっきりと憶えている。
 妻のお腹もだいぶ大きくなってきた胎児年齢19週間目の検診のことである。
 私たち夫婦は名前を呼ばれると診察室に入り、妻はいつものように診察室でベッドに横になり、着ていた服を上げお腹を出した。
 先生は透明のゲルをチューブから妻のお腹の上に捻り出した。小さな山のようになったそれを慣れた手つきで彼女のお腹全体に引き伸ばす。妻はその冷たさを顔に表し私を見ていた。
 機械の正式な名称は知らないが、エコーカメラが妻のお腹に触れると、診察室の天井からぶら下がるように設置された台に置かれたモニターに、我が子の映像が映し出された。
 この日もそこに映るわが子は、エコーを通して私たちのことを眺めている。
 このとき私は友人から前情報を仕入れていた。
「もう、そろそろ分かるんとちゃうか」
「しっかりエコーを見てきいや」
 友人たちは口々に男女の判別ができる時期であることを教えてくれた。
 それを踏まえた上で、私はモニターを食い入るように眺めた。
 どのくらいの時間、モニターを眺めていたのであろうか。両足の付け根辺りをじっと見る私。その間、先生と妻の声はほとんど私の耳には届いてこなかった。そして、そしてついに私は、股間と思われるその場所に、丸い小さな影があることを発見する。
「ん・・・あ!先生、あれひょっとして・・男の子ですか!」 
 その言葉を聞いて先生も妻も画面に見入った。
「・・・お、ほんまやな。男の子やわ。おめでとう!」
 先生の確信に満ちた声が返ってきた。
 何度も妻と診察を受けに来ていたにもかかわらず、自分に子供ができるという実感のなかった私であったが、このときに初めて、少しではあるが実感が湧いてきたように思う。
 それは決して派手なものではなく、心の奥底から静かに沸々と小さな泉のように湧き上がってきた。そしていつしか「男の子だ」という気持ちが、日を追うごとに私の心を満たしていったのである。それはその時まで、一度たりとも私の人生の中で経験したことのない、そして未だに言葉には表現することのできない不思議な感覚であった。
 

2006年5月30日 (火)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

 スイスから帰ってきて間もない8月21日の日付で、産婦人科で撮ったエコーの写真がアルバムに残っている。
 そこにはもうすでに、頭、胴、腕、足がはっきりと写し出されている。なるほど、この腕で母のお腹にしっかりとしがみつき、足を突っ張って、自分の体を激しい縦揺れ横揺れからその身を守ったのかもしれない。
 私は、このエコー写真を見て改めて驚いた。それは私が思っていたよりもはるかに早く、人の形が母体の中で形成されていくということである。
 写真に記されている胎児月齢は「AGE12w2d」とあるから、おそらくその月齢は十二週間と二日ということであろう。
前回の検診はこの日のほぼ1ヶ月前。そのときの写真には、まだ小さな丸いもの(アルバムには妻の字で「小さな心臓が動いていて感動」と記してある)のみが写っている。
 そしてその丸いものは急速に細胞分裂を繰り返し、わずか1ヶ月で人の形を作り上げた。
 こうしてアルバムを見ていると、改めてこれから生まれてくる命の力強さに驚かされる。
 そこから1ヶ月後の9月18日の検診で撮った写真に写っている我が子は、その顔を写して欲しい言わんばかりにこちらを見ている。
 今、私は見ていると述べたが、その顔にははっきりと目、鼻、口が写っており、まるでそこには早くも彼の意思までが宿り始めているように見えるのである。
 そして、さらにその約一ヶ月後の10月16日。私は診察室でで妻よりも先生よりも早く、一大発見をすることになるのであった。

2006年5月17日 (水)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

 私たちは関空(「かんくう」と読む、関西人は通常「関西国際空港」という名称では呼ばず、「関空」と呼んでいる)から自宅までの足として、空港から京都駅までの直通特急の切符を予約していた。
 私はフライトに遅れが生じたときのことを考え、飛行機到着時間から少し余裕をもたせた発車時刻の列車の指定席を予約した。
 当初は「まあ、一応余裕を持たせておこう」といった程度にしか考えていなかったのだが、これが見事功を奏した
 。飛行機の車輪がキュキュっと音をたて滑走路に接したとき、まだ列車の発車時間には至っていなかった。
「よし、いける」
 私は心のなかで、そう呟いた
 しかし、発車までにはさして時間は残っていなかった。到着後は腕時計とのにらめっこである。
 お盆の最終日、入国審査待ちは長蛇の列を極めた。遅々として進まぬ人の列に私は苛立った。
「・・せっかく高い金を出して指定席を取ったんや、それを逃してたまるか・・」
 私の気持ちは「指定席に座る」ことで埋め尽くされてしまっていた。
 やっとのことで入国審査を終えた私たちは急いで駅へと向かった。
 関空にはJR西日本の駅と南海電鉄の駅があり、空港のエントランスからは距離をおかずして列車に乗ることができる。
 私たちが空港の玄関に着いたときの残り時間は5分あるかないかであった。
「あと一踏ん張りで指定席に手が届く」
 そう思った私は、とんでもない行動にでた。
「よし、走るぞ!ついて来いよ」
 そんな内容のことを妻に告げると、私は首に小さな鞄を引っ掛け、片手に私のスーツケースをそしてもう片方には妻のスーツケースを持ち、火事場の馬鹿力よろしく、それをグイッと持ち上げた。そして指定席目掛けて、突進し始めたのである。
 これにはさぞかし妻も驚いたことであろうが、それでも妻も必死についてきた。何十メートルかの距離を駆け抜けて、改札口までたどり着いたとき、妻は私を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。お腹の中に赤ちゃんがいるねんから、そんなに走らさんといて」
 妻の悲痛な叫びであった。
「あ・・・」
 私は言葉を失った。またもや大失態である。
 たかだか列車の座席の為に、まだ安定期に至っていない妊婦を走らせてしまったのである。
 私は、自分の顔から血の気が引いていくのがよく分かった。
 妻の一言でようやく冷静になった私は、妻と供に改札口をくぐり、ゆっくりと列車に向かった。ホームに着いたとき、列車はまだそこにあり、二人はまだ荒い息を整えながら席に着いたのである。
 それから数十秒後、ドアは閉まり列車は一路京都へと向かって走りだす。
 それにしても、このアホな父親の行動にも息子はよく耐えた。激しい縦揺れ横揺れにも屈することなく、母のお腹にしがみつき、この試練を耐え抜いたのである。
 帰国後、しばらくして私たちは産婦人科を訪れた
 その検診で、お腹の中の子は無事成長していることが確認できた。
 そして私はこのとき、あの旅を無事乗りきったわが子は必ず元気に生まれてくる。何の根拠もなかったが、なぜかそう確信したのである。

2006年5月15日 (月)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

このときのアルバムを開いていたら、旅行日程表なるものを発見した。 それには「鉄道でめぐるスイス9日」と表題には書かれている。
 しかし鉄道での旅とはいえ、この旅行では本当によく歩いた。すべての場所に列車で行ける訳ではない。(それでもスイスの列車のすごいところは、幾つかの登山観光名所の山では、富士山と同じくらいの高さの場所まで、列車で一気に行けるのであるが)
 一度目的地につけば主な移動の手段は、己の足一組だけである。
 スイスと言えば、山の景色がとても美しいことで有名だ。また、その美しい山々を肌で感じるため、山歩きもスイスを楽しむ醍醐味の一つである。
 したがって当然のごとく、私たちも山道をハイキングした。山歩き初心者向きのコースを選んで歩きはしたが、それでもやはり山のこと。当然、道にアップダウンは付きものである。
 しかも、どのコースも目的地までには、片道1時間くらいはかかる。しかしそんな時間は私には全く苦にならなかった。そこには「アルプスの少女ハイジ」の世界が、そのまま目の前に広がっている。カウベルを付けた牛たちがのんびりと草を食む姿や、澄んだ水がチョロチョロと音を立てながら、山のなだらかな斜面を流れてゆく。私の心はしばらくの間、アルプスの大自然に奪われたままで、妻を気遣うことはすっかりと忘れていた。
 またある日はスイスのきれいな街中を歩いて回った。 それこそ日が明るいうちは歩きたおしたのである。
 旅の後半からは、妻のお腹に赤ちゃんが宿っていることを忘れていることすらあった。
 そんな私のことを妻はどのように見ていたのであろうか。今更ながらとは思うが、今度機会があればあのときのことを謝っておこう。
 さて、楽しい時間ほど早く過ぎて行くというのは本当で、スイスでの初日を終えてから帰国するまでの間は、本当にあっという間に過ぎて行った。
 スイスの北の玄関口チューリッヒから始まった私たちの旅は、もう一つのスイスの玄関口、フランスと国境を接する西の玄関口、ジュネーブで終わりを告げた。
 この旅では当時まだ胎児であった長男は、本当によくがんばって、お母さんのお腹にしがみついていたと思う。
 母親の一歩一歩の振動は、直接彼の体にも響き渡ったこどであろう。また、母体の疲れはそのまま胎児にも影響する。
 そんな状況を彼は見事乗り切ったのである。しかし、この旅の最後に、彼にとって一番大きな試練が待ち構えていた。
 帰国の途中オランダ、スキポール空港に立ち寄り、ここで日本行きの飛行機に乗り換えなければならなかった。しかしこの飛行機の出発が一時間以上遅れてしまい、そして事はこれに端を発するのである。
 もともとスイス発の飛行機から日本行きの飛行機までの乗り継ぎの時間には、2時間くらいの待ち時間があった。
 そこにプラスアルファがあったので、私たちはかなりの時間、空港で待たされることになった。免税店で土産物を買う以外は時間をつぶす方法もなく、その後は空港のソファーで居眠ることになる。
 ようやくのこと搭乗案内が流れ、乗客は飛行機へゾロゾロと足を運び、それから数十分後ようやく、本当にようやくのことで飛行機は関西国際空港に向かって飛び立った。
 そして、これがこの旅における、息子の最終試練の序章となったのである。
 

2006年5月 8日 (月)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

チューリッヒ国際空港は、国際と名がつくわりには、こじんまりとした空港であり、乗り換えのために立ち寄ったスキポールとは対照的であった。
 スキポール国際空港はヨーロッパでも一、二を誇る規模の大きさだと、何かの本で読んだことがある。空港ターミナルの中にはカジノもあり、また免税店の品揃えも豊富であった。その中をじっくりと見て回ればターミナルで半日は時間をつぶせそうであった。
 ちなみに、何故オランダの空港を経由しなければならなかったかと言えば、今回この旅のお供をしてくれたのはオランダの航空会社であったからである。スイスの航空会社を使えばもちろん直行でスイスへ行くことができたのだか、費用の関係から前者にお世話になった。
 空の話の次は、陸の話を少々。ヨーロッパは概ね鉄道の発達した国が多い。その中でもスイスは鉄道が大変発達した国である。空港からチューリッヒまでは地下鉄が走っており、主要な都市間もすべて鉄道でつながっている。時間も正確で、日本の鉄道にも引けはとらない。今考えてみても、旅行者にとって旅をしやすく、とくに妊婦にとっても(あまり妊婦さんで、旅行をする人もいないかもしれないが・・・)旅のしやすい国であった。
 余談が長くなってしまったが、とにかく、なんとか無事チューリッヒに入ることができた。ホテルに着いた頃には、日はとうに暮れていたと記憶している。
 本人が決めたこととはいえ、身重の妻はさぞかし疲れていたであろう。そして私も疲れていた。
 二人は夕食もそこそこにホテルの部屋に戻り、眠りについた。こうして早くもスイスの一日目は終わりを告げるのである。

2006年5月 7日 (日)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

 やはり、人の記憶とはあいまいなものである。前回、最初に産婦人科を訪れた月は六月であると書いた。しかし、あらためてアルバムを開きなおしてみると、そこには七月の日付が記してあった。まず最初にその点を訂正させていただきたい。
 ここからは、アルバムも参考にして書き記していくことにしよう。
 七月の時点で、最初のエコー写真の記録があった。そこに写っているのは、小さな心臓の写真である。素人の見た目にはこれが何なのか、判別はつかない。おそらく先生が教えてくれたのであろう。
 それが何であれ、そこには小さいが、はっきりと命の芽生えが映し出されている。私たちはそれを見て、命の不思議と尊さを噛み締めていたに違いない。
 さて、その後に控えた旅行の話である。
 時々、思い出したように笑い話として、今でも妻と話すことがある。
 今考えても、よくあんな決断ができたものだと、感心するやらあきれるやら・・・。
 そう、私たちは多少、紆余曲折はあったものの、スイス旅行を決行したのである。妊娠が判明した当初、正直言って私はこの旅行には消極的であった。もちろん、お腹の中の赤ちゃんが心配だったのである。
 しかし、妻のスイスへの思いは強かった。強い一念は岩をも動かす。私は妻に押しきられるかたちで、スイス旅行決行を決断したのであった。
 そして明くる月、八月のお盆初日に、私たちを乗せた飛行機はオランダ、スキポール国際空港へ向けて関西国際空港を飛び立った。
 スキポール空港に着いたのは、その十一、二時間後。そしてそこでスイス、チューリッヒ国際空港へ向かう飛行機に乗り継いだ。スキポールからチューリッヒまでは二時間弱であったように思う。
 かくして、私たちはスイスの地を踏みしめることになるのである。チューリッヒに着いたときには、すでに夕方を迎える頃であった。

2006年5月 6日 (土)

回想編 ・・・僕がお父ちゃんになるなんて�・・・ 

初診が終了してお金の支払いが済むまでに、結局二時間くらいかかったように記憶している。
 ようやくのことで妻を見つけたところまでは記憶にあるのだが、そこから先はほとんど憶えていない。
 最初ということで妻は色々な検査を行っていたようだが、何をしていたのかは、まったく憶えていない。
 妻が忙しくしていた間、私はボーっと部屋の中の風景でも見ていたのだろうか。
 とにもかくにも、私たちの子供が妻のお腹に宿っていることは、この日にめでたく確認できた。そして無事わが家に戻ってきたころには、お昼を過ぎていた。
 先にも書いたが、このときも私が父親になる、そのことが私にはどうもピンとこなかった。そしてその後、可能な限り私は妻と共に産婦人科に通ったが、やはり「父親になる」という実感はなかなか湧いてこなかったのである。
 さて、初診の日に話は戻るのだか、この時点で私たち夫婦はある問題を抱えることになる。
 確か、初診の月は六月だったと記憶している。そしてその二ヵ月後には久しぶりの海外旅行が私たちを待っていた。
 私たちは海外で式を挙げた、そして結婚して二年。子供が生まれるまでに、もう一度海外旅行に行こうと約束していたのである。目的の地は、妻が憧れていたスイス。その旅行が目前に迫っていた。
 お腹の中に子を宿している。その状態でスイスへ行くべきかどうか、私たちはしばし迷うことになるのである。